潮騒、某、暮れ泥み

小説のような旅行記を。鉄道旅を主として全国を旅しています。

岐阜・愛知・長野旅行

 大阪と東京の間をJRで移動する経路は、細かな支線を除いてほぼ乗車済であったが、最後にもう一つ長い路線が残っていた。それが飯田線であった。飯田線豊橋駅から辰野駅までを結ぶ長大な路線で、各停で乗り通すと7時間程もかかる。そこに少し沿線観光を加えながら東京に向かおうというのが今回の旅の発端である。

 ただ、単に飯田線に乗るだけなら大阪から東京まで1日で足るが、沿線観光を含めると2日はどうしてもかかる。また、飯田線の途中駅には大して大きな駅もなく、沿線でいつも通りネットカフェに泊まるということもできない。というわけで1日目は愛知までしか行けないので、前日入りを兼ねての東海観光をすることにした。

 新快速で米原まで行くと、東海道本線の中でも面倒な乗継区間の一つである米原〜大垣間の車両に乗る。随分な日数を国内旅行に費やしてきたが、実はこの数駅だけの県境越え区間に、下車すらしたことがないが非常に有名な土地があった。言うまでもなく、天下分け目の関ヶ原である。

 

 

 東海道本線の沿線には、灯台下暗しのように見逃し続けてきた場所がいくつもあったが、その一つであった関ヶ原に訪れることが今回叶った。知名度の割にさして観光客は多くなく、閑散とした駅前から決戦の地へと歩を進める。途中に現代的な建築のミュージアムがあるが、一旦は通り過ぎて、田舎道を辿っていくと、真っ直ぐ伸びる道の左側に決戦地の幟が掲げられた場所に着いた。

 

 

 決戦地には幟と石碑、それから解説の看板以外には何もない。ただ、その雑草のみ生える空間で、日本の近現代史の方向性が決まったのかと思うと、不思議とオーラのような非科学的な何かを感じ取らずにはいられない気がした。歴史にifはないと言うように、ここで石田三成陣営が勝っていたらどうなっただろうかなどと考えても、私程度の日本史の知識量ではパラレルワールドを整合的に考えることすら難しい。道の更に奥を見遣れば、山の中に色んな陣営の陣取った跡地があるのだが、そこまでを巡るほどの体力も時間もなく、引き返してミュージアムの方へと向かった。

 ミュージアムと呼んできた場所、正式には関ヶ原古戦場記念館という場所は、かなり最近できたもので、歴史的に重要な場所であるのに観光客を惹きつける要素が弱かったためにようやく造られたもののようだった。周辺には徳川陣営の跡地があり、ミュージアムの1階の受付兼ロビーのような空間には、来訪当時に放送されていた大河ドラマ『どうする家康』の等身大パネルなどが置いてあった。

 

 

 館内は上層に展示がある構造で、関ヶ原の戦いにまつわる歴史や兵糧などの解説があり、また戦場跡を上から見渡せる展望エリアもあった。晴れの関ヶ原を見下ろすと、山の中に点々とそれぞれの陣営の幟が立っているのが見える。展示をすべて見終えると、最初にちらと見えた大河ドラマとコラボしているパネルの並ぶエリアに出て、そこから出口とミュージアムショップに続いていた。

 

 

 記念館を後にすると、駅に戻って大垣行の列車に乗る。大垣まで来れば名古屋近郊を走るJR東海の新快速に乗ることができる。岐阜駅から快速になって飛ばしていく中、名駅を少し過ぎて、大府駅で降りた。大府は東海道本線が通る他、武豊線の起点でもある。次はこの武豊線に乗り、そこから更に南へと知多半島の観光をするのである。

 武豊線に乗って武豊駅まで行くと、知多半島を通るJRはここまでなので、ここからは普通運賃で名鉄に乗るしかない。名鉄知多武豊駅まで歩いて名鉄河和線に乗り換え、3駅乗れば終点の河和駅に到着する。河和は知多半島を鉄道で訪れる場合の一つの南限ではある(知多新線の方が更に南まで行くが)ので、ここからは船に乗って離島を目指す。

 

 

 知多半島渥美半島の間の三河湾に浮かぶ離島がいくつかあるが、それを全部訪れる時間的余裕はないので、今回は日間賀島を訪れることにした。他には篠島や、渥美半島の先端である伊良湖に行く船があるが、伊良湖には三重の鳥羽から船で行ったことがある。調べてみれば色んな航路があるものである。

 河和港で日間賀島との往復乗船券を購入し、高速船乗り場に向かうと、多くの旅行者が並んで船に乗り込んでいる列に入る。乗船すると、30分弱ほど半島の東側を通って、夕方の日間賀島西港に着いた。よく晴れた日で、三河湾が煌めいていた。

 

 

 日間賀島は蛸で有名である。蛸とそれが乗っている蛸壺に歓迎と書かれたモニュメントが港に降り立った旅の人を迎えてくれる。島に降り立ってしばらくは港周辺をうろうろしていたが、最初に行こうとしていた店が営業していなかったところ、より港に近いところにいい感じのバルを見つけたので入ってみることにした。たこ唐串とクラフトビールを注文して、それだけでも日間賀島の美味しい蛸を十分味わえたのだが、看板メニューと思しきうちの一つのたことしらすのアヒージョがどうしても気になって、追加注文してしまった。少し高かったが、それも非常にガーリックな味わいで美味しく、クラフトビールと合わせると最高にいい気分になれるちょい飲みを楽しめた。

 

 

 

 

 店を出ると、もう帰路へと戻っていく。もう少し早く来ていれば色々ゆっくり島内を回ることもできたのであろうが、着いた時点で夕方で、店もどんどん閉まっていったので、仕方がない。同じ航路で河和港まで戻ると、少しお土産を物色した後、名鉄河和駅から名鉄特急に乗ったにもかかわらず、少しでも18きっぷで安くするために武豊で乗り換えて、武豊線区間快速名古屋行に乗った。寝て起きると名駅に着いていて、時刻はとっくに夜であった。

 その後は名駅で友達と会い、飲みに行ったが、だらだらと飲んでいるうちに終電がなくなり、豊橋に前日入りするという当初の計画が崩れて結局は名駅付近で一夜を明かした。多少計画はずれるが、それでも別に翌日飯田線沿線を観光するのに問題はなさそうだったので、軽傷だと気にせずに寝落ちした。

 

 翌日、早朝から各停の東海道本線で寝ながらのんびり豊橋まで向かった。豊橋に着いても、長野県内まで抜けていく飯田線の始発は過ぎてしまってかなり待ち時間が発生していたので、まだ少し冷える朝を耐え凌ぎながらようやくやってきた飯田線天竜峡行に乗った。飯田線は過去に豊川まで乗って豊川稲荷に参拝したことがあるが、その先は未踏の地で、間の秘境駅として有名な駅のあるような山奥の区間を通り抜けて、4時間もかけて天竜峡にまで到達した。

 天竜峡で乗り継ぐのに20分ほどの待ち時間があったので、駅を出てすぐの橋まで行き、天竜川とその両岸を彩る桜の織りなす春の絶景をしばらく眺めていた。ごつごつとした岩肌の上に伸びる木々は四季折々に表情を変えるのだろう。駅のすぐ近くのさらっと見に行ける距離にこの景色があることをありがたく思った。

 

 

 

 

 駅に戻ると次は中央本線まで直通する茅野行の列車が来ていた。天竜峡から北は伊那盆地の細い市街地を縫うように走っていくが、沿線には町村も多い田舎である。車で来ればもっと色々と楽しめるスポットがあるのだろうと思いながら更に2時間半ほど列車に乗って、伊那市駅で降りた。

 伊那市駅は名の通り伊那市の中心駅である。伊那市と言えば最近ではKing Gnuでダブルボーカルを務める常田大希と井口理の出身地としても知られる。その東の方には青森の弘前公園、奈良の吉野山と並んで日本三大桜の名所とされる高遠城がある。バスで高遠駅まで向かって、そこからしばらく歩いて、平山城に至るまで坂を上っていくと、ちょうど桜が満開に近く咲き誇っている城門に着き、縄張の内側へ入ると多くの桜と共に祭りの屋台が建っていたり、顔出しパネルがあったりとお祭りムードを感じさせる様子で、夕方でも多くの人々が桜咲く城跡に魅了されていた。私も桜の舞う城内や、そこから見下ろせる城下町などをしばらく眺めて感に入っていた。

 

 

 

 

 

 夕日の差す高遠城を下っていって、同じバス停からまた駅まで戻る。ちょうど日も暮れてきて夕飯時になったので、伊那名物のローメンを食べにいった。ローメンとは基本的には中華麺に羊肉と野菜を乗せた焼きそばのような料理であり、他にも色々なアレンジがあるようだが、私は駅近の恐らくオーソドックスなタイプのローメンをいただいた。太麺も私好みで、マトンやシャキシャキしたキャベツも美味しく、個人的にもかなり高評価のご当地料理となった。

 

 

 流石にそろそろ伊那を発たないと東京まで辿り着けないので、辰野から中央本線辰野支線を経由する岡谷行に乗って飯田線を完乗し、中央本線で東京を目指した。夜の中央本線が山梨・東京方面へと向かっていく。長い飯田線に乗る壮大な遠回りが幕を閉じた。